「バンギャルちゃんの日常」は「バンギャルじゃない日常」に支えられてる

バンギャルちゃんの日常」読みました。

これと「ジャニヲタあるある」も同時にネットで注文していたのですが、ジャニヲタあるあるが在庫切れだったらしく、全然届かないので先に「バンギャル〜」だけ届けてもらいました。

バンギャルちゃんの日常

バンギャルちゃんの日常

恐らく同い年で、同時期にヴィジュアル系にはまったであろう作者の蟹めんまさんが中高時代に体験した「バンギャルあるある」は、びっくりするほど共通の体験を持っていたので、自分の思い出のアルバムを知らない誰かが勝手に持ってたような変な気分になりました。

月神宮橋に通って名刺交換して携帯サイトつくってペーパーつくって白衣とか学ランとか着てライブで知り合った子たちとプリクラ撮りに行く、絵に描いたようなバンギャルだった時代は中1〜高1の4年間ほどで、よく考えれば人生の中のほんの一瞬でしたが、なにかとその頃に自分の根っこを求めてしまいがちです。

これはなんでなんだろうと考えてみます。


とにかく共感した「あるあるネタ」が多かったのですが、特に細かいところで「この作者、私だ…」と感じたのは

オバンギャが集まるととりあえず「Adolf」の振り付け

快感フレーズにハマる
 (人気絶頂のバンドマンと付き合って処女を奪われるっていうストーリーが確かに当時JCバンギャの心の柔らかい場所をぐっと握っていたよね)

・バンドマンに憧れるあまりに楽器を持ってみる。が、特に何も弾けずに終わる

・麺への忠誠心をライブ参戦回数など経済力や行動力を伴う行為で示すことが難しかったので「麺が好きな洋楽のアーティストを知る」ことで示そうとする

・いくら頑張って自分なりにおしゃれをしてっても集会などで常に「こんな地味すぎる自分だめだ…」と劣等感に苛まれる


特に最後の2つがじわっと沁みました。


この漫画を通してバンギャルの「ファン行動」をざっと俯瞰して思うのは、少なくともバンギャルの行動は「周りと同列になりたい」という欲求と「周りからちょっと目立ちたい」という2つの相反する欲求で成り立ってるということです。

振り付けを覚えたり、名刺作って交換したり、ロリや白衣などで奇抜な格好したりコスしたりして、周囲から浮かないようにしようとしてる一方で、人よりはかわいい服、クオリティの高いコス服着たいし、出待ち入待ちで本命麺に気に入られるようにちょっと目立ちたい。

漫画に描かれた「あぁこれ…身に覚えがある」と思った行動のひとつひとつを改めてこうして振り返ると、微妙な相反する気持ちに裏打ちされたものだったなと思います。人からはずれたくないけど、ちょっとは目立ちたい、という。端々に出てくる蟹めんまさんの劣等感の描写は、そうしたいけどできないときに浮かんでくるものです。

要は、バンギャという中にもおぼろげながらヒエラルキーのようなものがこの当時の私や蟹めんまさんの中に見えており、自分たちはそうしたヒエラルキーの底辺にいるような感覚を持っていたのだと思います。

学校のスクールカーストで底辺だったから、そこから逃れたくて集会などで学校外のバンギャの友達を作っていた。しかしそこでもうっすらとヒエラルキーを見出してしまってた。

ただ、そこで蟹めんまさんとか私は逃げもせずにせっせと這い上がろうとしてたのですね。多分。本命麺の好きな洋楽のバンド聴いたりとかして。やっぱり「バンギャルちゃんの日常」っていう学校生活ではないスペアみたいな日常って、学校を生き抜くよりラクだったのではないかなと思います。そしてスペアの日常は生きるための大義である本命バンド様がいらっしゃったわけです。

スペアでない、ガチの日常をせっせと頑張って生きられたら、中高時代はきっと別の意味で楽しかったのでしょう。ガチの日常の”スペア”として無駄にいろいろ頑張った日々があったからこそ、あの4年間がいまだに自分の中で根っこみたいに捉えてしまうのかなと思いました。